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考察

一重瞼二重瞼から日本人のルーツを検証

【起】
日本人の二重瞼率は30%程度、韓国人の生まれつきの二重瞼率は10%もないと言われています、中国人の二重瞼率は25%くらいですが地域差があるようです。
◆遺伝的に二重まぶたは優性遺伝で、一重まぶたは劣性遺伝である。
◆一重まぶたはモンゴロイド人種に特有の特徴である。
◆白人はまぶたの皮膚が薄く、二重になりやすい。
◆メンデルの法則によると、遺伝子には優性と劣性があり、2つを交配させた場合、優性の性質が優先される。
◆まぶたの遺伝は、二重よりも一重が優性。
つまり、二重の人と一重の人の子供は、二重の性質が優先されて、二重まぶたになるということです。
その理屈でいくと、普通に世代を重ねていくと、地域や人種に関係なく、地球上の人類の限りなく全員に近い人が二重まぶたになるはずです。
その他、優性遺伝。劣性遺伝に以下のようなものがあります。
・髪の色:黒>赤>淡色
・頭髪:縮毛>巻き毛>直毛
・まゆげ:濃い>薄い
・まつげ:長い>短い
世界の人種は、その起源と身体的特徴から、コーカソイド(白人)、モンゴロイド(黄色人)、ネグロイド(黒人)、オーストラロイドの4つに分類されます。
なぜモンゴロイドは、劣性であるはずの特徴を多く持っているのでしょう?
モンゴロイドは寒冷地に適応していったと考えられます。
インド、東南アジアから人が移動してきたのが中国南部の文化(長江文化 現上海)で砂漠を越えて移動してきた北方モンゴロイドの地域が遼河文化(現遼河)
その二つがぶつかったのが黄河から長江にわたる地域(仰韶文化・竜山文化でのち黄河文明に発展した)であると考えられます。

基本的に朝鮮半島人にあたる民族には二重瞼は存在しません。
というのも、現在の韓国人のDNAなどからも元々はシベリア東部のヤクート系といわれています。
※一部ネットにはエベンキ族が韓国人(朝鮮半島人)のルーツといったヘイト的な書き込みが横行していますが、エベンキ族がそもそも古代(新石器時代・無文土器時代)において地域民族として成立していたという確証はありません。
魏志韓伝や漢書からワイやハクといいった記述があり、汚れを現す漢字で朝鮮半島の糞尿文化につながるといった形で拡散しているようですが、日本に対しての「倭」という漢字も小さいという意味で中国王朝の差別対象であったことは事実です。


朝鮮半島では3万年前頃の石壮里遺跡からシベリア東部のヤクート系と同系の石器が見つかっています。
日本列島では3万年前頃の岩宿遺跡からシベリア東部のヤクート系と同系の石器が見つかっています。
中国大陸では3万年前頃の遺跡がまだ、発見されていません。
※ただしウイグル地域からは出てきているようです。
現存しませんが数十万年前頃の北京原人の遺骨は有名です。
中国の考古学は、文化大革命などにより世界基準からは若干遅れておりいまいち信用できないというのが通説です。

1万年前から5千年前あたり、朝鮮半島ではほとんど遺跡が発見されていません。
韓国の考古学会でもなんらかの環境変化で人が住めなくなったという定説がありますが、なんらかの環境変化が気候変動なのか天災なのかどういったものなのかということが提示されていないのが実情です。
朝鮮半島では4500年前頃になってようやく中国大陸 遼河遺跡(黄海、北東部沿岸)から伝搬した櫛目文土器文化があらわれます。
日本列島では、16000年前の縄文遺跡から弥生遺跡にかけて継続的に遺跡が発掘され各遺跡で土器や建物跡などが出土しています。
中国大陸においては、約9000年前以降の遼河遺跡や仰韶文化・竜山文化、黄河文明「夏」「殷」などが連続的に遺跡が発掘されています。
それ以前に関しては、廟岩遺跡(広西チュワン族自治区桂林)、大龍潭遺跡(同柳州)では暦年代2万年前にまでさかのぼる土器が、さらに仙人洞遺跡・吊桶環遺跡(江西省万年県)、県玉蟾岩遺跡(湖南省道)では14000年前~12000年前の遺跡から18000年前の土器が出土したと発表されています。
遺跡年代の信ぴょう性や土器年代の矛盾、さらに現在土器が紛失している事、日本の考古学者が調査依頼しても許可がおりない。など、いまいち信頼性に欠けるというのが実状です。
以上を前提としての常識的な知識から、考察していきます。

日本列島人のルーツは北方から移動してきたのヤクート系と南方から移動してきたのマレー系との交雑であったかと考えられています。
ゆえに、日本列島では一重瞼と二重瞼が混合しています。
ちなみに以前は、アイヌ人は二重瞼でホリが深くて毛深いことに対して北方系と言われていましたが、シベリアあたりのヤクート系や北方モンゴロイド、エスキモー、さらに北海道につながる樺太のニヴフも一重瞼で毛が薄くアイヌ人とは顔・体形・言語が異なり、DNAも共通点が少なく最近ではアイヌ人は大陸から移動してきた北方系のではなく南方系ではないかと言われてきています。

中国大陸などは、北方モンゴロイドまたはアルタイ・ツングースク系が押し寄せ一重瞼となりますが、現在の上海や福建省あたりの大陸人は二重瞼が多く、ベトナムあたりから移動してきたマレー系ともいわれています。
長江中域から長江河口域にかけて発展した文化が長江文化であり、黄海・北東部沿岸 遼河で発展した文化が遼河文化であり、その間に位置するのが黄河文明と呼ばれています。
ゆえに中国大陸においても地域の差はあるかもしれませんが、一重瞼と二重瞼が混合していました。

これはあくまで、100000年前から4500年前の時代の特徴です。
漢民族もいなければ韓国もなく日本も国家もなかった時代の事です。

では、約4500年前を終点にして考察してみましょう。
約4500年前とは時代的にはどういった時代だったのか、わかりやすいように約4500年前以降で検証してみます。、
日本列島の弥生時代は、1500年後(紀元前1000年頃)になります。古墳時代は2800年後(紀元300年頃)になります。
朝鮮半島の三国時代は無文土器時代(青銅器時代 紀元前1500年頃)・原三国時代(紀元前100年頃)を経て、2800年後(紀元300年頃)になります。
中国大陸最古の国家と言われている「夏」は500年後(紀元前2000年頃)になります。
※世紀:キリスト生誕は2500年後となります。
※間違わないでください、「国家」というものも、「民族」というものもなかった時代のお話です。
※現代の国家価値観や民族価値観や思想に基づいた歴史観ではありません。
※その前提が許せない方は以降読む必要はないと考えます。


【承】
◆人の移動に関しては定住が伴った動きを移動とし、交通や交易は移動とはせず、交流と定義します。
◆文化に関しては主に言葉(外来流行語)や交易品「製造物」や「資源」と、ここでは考えます。
◆「物」に関しては石器・土器・青銅器・鉄器・アクセサリーなど、「資源」に関しては黒曜石・ヒスイ・青銅・鉄・稲作・馬・牛などとします。


【日本における文化の伝搬・継承ルートの定義】


●ルート1、樺太・北海道
●ルート2 シベリア・日本海
●ルート3 朝鮮半島・対馬海峡
●ルート4 黄海・東シナ海


①約30000年~15000年前の旧石器時代は、
 ルート1、ルート3で原人・新人含めて人の移動があった。移動先の文化は移動元の文化と同じ。
②約15000年~10000年前の縄文時代 (草創期)は、
 ルート1、ルート2は人の双方向の移動をともなって文化が行ききした。ルート3は朝鮮半島南部と九州北部のみ移動をともなって双方向で文化が行ききした。
 ルート4は人の移動も文化の伝搬もなかった。
 ※中国沿岸部に遺跡が検出できていない事と長江文化が約9000年前ということで移動も文化の伝搬もなかったとしました。
③約10000年~7000年前の縄文時代(早期)は、
 ルート1、ルート2では人の移動をともなわず物々交換(交流)で文化を伝えあった。
 ルート3からの人の移動が途絶えた。
 ルート4は移動をともなって九州に文化が継続して伝搬した。
  ※韓国中南部での遺跡が発掘されず、少数の移動民が存在したか無人であったと考えられています。(このような例として、沖縄の無人時代などがあげられています。)
  ※アイヌ時代の北海道アイヌと樺太ニヴフとの物々交換(交換所に物品を置いてもどり翌日行けば交換された物がおいてある)が文化人類学で認められています。
  ※北海道の黒曜石などが樺太、シベリアの遺跡等で検出されています。
④約7000年~5000年前の縄文時代(前期)は、
 ルート1、ルート2は人の移動をともなわず物々交換(交流)で文化を伝えあった。
 ルート3で、人の移動をともなって列島から朝鮮半島に文化を伝えた。
 ルート4で、人の移動をともなって九州・朝鮮半島南部にそれぞれ別個に文化が伝搬した。
  ※韓国南岸部の東三洞同貝塚遺跡で縄文土器、黒曜石(列島産)が出土しています。
⑤約5000年~3000年前の縄文時代(中期・後期・晩期)は、
 ルート1、ルート2は人の移動をともなわず物々交換(交流)がほそぼそと行われていた。
 ルート3で、列島から半島へ、または大陸北部から半島へ人の移動をともなって文化が伝搬した。
 ルート4で、人の移動をともなって文化が伝搬した。
  ※北海道から、東北にかけては縄文人の人口が減少しだした衰退期にあたっています。(気候変動か天災が影響した可能性大)
  ※半島を中継地点として大陸北部と結ばれた列島地域(福岡・島根)と海で大陸北部と結ばれた列島地域(佐賀・熊本)との対立がは始まりかける。(出土人骨から判断)
  ※約4000年前ころから縄文遺跡の一部に環濠集落(中国 長江文化より伝搬)が現れてきます。
  ※北海道・東北地方の縄文文化が徐々に衰退し、西日本の縄文文化が活性化していきます。
⑥約3000年~2300年前の弥生時代(早期・前期)は、
 ルート1、ルート2は人の移動をともなわずアイヌとニブフなどの物々交換(交流)が始まった。
 ルート3で人の移動をともなって文化が双方でいききした。
 ルート4で大陸から人の移動をともなって文化が伝搬した。
⑦約2300年~1700年前の弥生時代(中期・後期)は、
 ルート1、ルート2は人の移動をともなわずアイヌとニブフなどとの物々交換(交流)が活発化していった。
 ルート3、ルート4で人の移動をともなって文化が伝わった。
  ※列島各地に小国が乱立し、列島連合体が誕生。(魏志倭人伝 邪馬台国など)
⑧約1700年~1300年前の古墳時代(前期・中期・後期)は、
 ルート1、ルート2は人の移動をともなわずアイヌとニブフ・千島列島などとの物々交換(交流)が活発化していった
 ルート3は人の移動をともなって中国大陸植民地の楽浪郡から文化が伝わった。
 ルート4は人の移動も文化の伝搬も途絶えた。
  ※列島では倭王権によるオリジナルな墳墓である前方後円墳が築かれていきます。(5世紀には半島。栄山江流域にも影響を及ぼしていきます)
  ※半島中北部では中国 漢によって楽浪郡が置かれ、植民地時代になり、南部は三韓(弁韓・馬韓・辰韓)時代となります。
  ※中国大陸から列島への文化伝搬は朝鮮半島の楽浪郡を通して発達していき、黄海を渡っての直接伝搬は消失したと考えられます。

遺跡・遺物や人骨のDNAや言語や風習・風俗などから判断しています。

現代、考古学や歴史学に関して古代を学習していくとほとんどが「朝鮮半島から先進文化が伝えられた」とされる文献をよく目にします。
某国営放送などでの企画番組でも例外ではありません。

すべてがルート3「朝鮮半島」において、「朝鮮半島から先進文化伝えられた」とされ「大陸の先進文化が朝鮮半島から対馬海峡を経由して伝えられた」という丁寧な文言を目にしたり、耳にすることはほとんどありません。
いったいなぜなのでしょうか。
「朝鮮半島から」という文言を使うことによって、現在の朝鮮半島の国や住民(現北朝鮮や韓国)を想起させるようにわざと誤解させています。
そこで、「朝鮮半島を通って」ではないかと問えば、「朝鮮半島から」はその意味合いも含むとして正しいと論じることができます。
朝鮮半島に興った文化と朝鮮半島を経由してきた大陸の文化をあいまいにして、朝鮮半島に優越性を付加する意図が感じられます。
また、渡来および渡来人もそうです。
意味合いとしては日本に帰順(帰化)しない人々をさし、移民でもなく移住でもない独立性をもった対象という意味を押し出しながら、海を渡ってやってきた人をも含むので間違った表現ではないとして誤解を誘発しています。
きちっと区分しなければ、日本のルーツが探れません。
そこで、本当にそうなのか、中国大陸・シベリア地方・朝鮮半島・日本列島の地図や海流などを前提として、人の移動、文化の伝搬を「一重瞼と二重瞼」から考察してみようと考えてみました。
すると、それほど歴史に精通していなくても、「朝鮮半島から先進文化が伝えられた」という文言はやっぱり「おかしい」ということが確認できました。

次に、一重瞼と二重瞼を時代で検証してみたいと思います。

①約30000年~15000年前の旧石器時代

●東アジアは原人も含めてみんな一重瞼。
ハンドアックスや打製石器はひろく伝わっていたと考えられるが交流ではなく人が移動して同文化をもって住み着いたと考えるべき。
岩宿遺跡で30000~20000年前の磨製石器が発掘されましたが、磨製石器が出土しだすのは岩宿以外では日本列島でも朝鮮半島でもシベリア地方でも、ヨーロッパ・中東地域でも②の新石器時代(約150000年前)からとなっていまsy。
この時期(30000~20000年前)において、岩宿の磨製石器が列島各地や朝鮮半島やシベリアや中国大陸には伝わらなかったと考えます。

②約15000年~10000年前の縄文時代 (草創期)

●中国大陸南部と日本列島南部を除いては一重瞼。
日本列島南部、朝鮮半島中部・北部、中国大陸北部・中部、シベリアでは一重瞼。
大平山元遺跡(青森県)から世界最古の土器が発見されます。
縄文時代における出土物は土器をみても文様のない土器、ある土器、形の平底や突堤など地域によって違いがあります。

③約10000年~7000年前の縄文時代(早期)

●中国大陸南部と日本列島南部を除いては一重瞼。
日本列島日本海側とシベリア地方との出土物がよく似通っています。
朝鮮半島において遺跡や遺物が検出されていなません。無人の地であった可能性があります。
中国東北部・遼河で興隆窪文化、長江流域でで彭頭山文化、黄河流域で黄河文明が興きます。
朝鮮半島北方の中国東北部・遼河近隣で興隆窪文化の櫛目文土器が発見されます。
中東やヨーロッパあたりで土器が出土し出すのは8000年前くらいからとなっています。

④約7000年~5000年前の縄文時代(前期)

●中国大陸南部と日本列島南部を除いては一重瞼。
縄文土器や土偶や甕棺墓といった共通性をもったものが列島各地や朝鮮半島南部で出土。
朝鮮半島・南部、東三洞貝塚が出現。(隠岐産の黒曜石や縄文土器、ヒスイなどが出土する。)
日本海沿岸の縄文人が移動して文化をもたらしたと考えられます。
縄文晩期4000年前あたりから朝鮮半島は無文土器時代に移行。(慶尚北道松竹里遺跡など)
中国大陸長江流域・河姆渡遺跡で稲作(ジャポイカ米)が出土。
沖縄が貝塚時代にはいっていきます。

⑤約5000年~3000年前の縄文時代(中期・後期・晩期)

●中国大陸南部と日本列島九州西部・南部を除いては一重瞼。
日本列島南部で吉野ヶ里遺跡が営なわれはじめます。
中国大陸南部で青銅器が製造され「夏」が興ります。

⑥約3000年~2300年前の弥生時代(早期・前期)

●中国大陸南部と日本列島九州西部・南部を除いては一重瞼。
中国大陸南部で鉄器が製造され「夏」が滅亡し「商」が興ります。
朝鮮半島は青銅器時代に。約50年ほど遅れて日本列島も青銅器時代となります。
日本列島では菜畑遺跡で3000年前頃の水田稲作に遺構が検出されます。
朝鮮半島では松菊里遺跡2700年前頃の水田稲作に遺構が検出されます
中国大陸は「商」が滅亡し「周」がおこりさらに戦乱が拡大して「春秋」となり、「秦」が中国統一をはたします。

⑦約2300年~1700年前の弥生時代(中期・後期)

●中国大陸南部と日本列島九州西部・九州南部、沖縄を除いては一重瞼。
中国大陸は「漢」時代となります。
朝鮮半島では2100年前(紀元前100年)あたりから漢による漢四郡(楽浪郡、、真番郡、臨屯郡、玄菟郡)の統治が始まり200年前(紀元前1年)ころから南部は弁韓、辰韓、馬韓の原三国(三韓)時代となります。
中国は「魏蜀呉」の三国時代を迎えます。
1800年前くらい(紀元200年ころ)に日本に邪馬台国が出現します。
日本列島は各地で戦争状態になり、難民が発生したと考えられます。(海流に乗れば、日本海側も太平洋側も東北、北海道に到達する)
北海道が続縄文時代へ。(アイヌの時代)
中国大陸は「漢」時代となります。

⑧約1700年~1300年前の古墳時代(前期・中期・後期)

●中国大陸南部と日本列島九州西部、日本海沿岸・東北・北海道・沖縄を除いては一重瞼。
中国大陸は「漢」時代です。
朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国と伽耶連合に分かれていきます。
日本は倭王権による連合国家の時代となり、各地に前方後円墳が造れるようになっていきます。
朝鮮半島から三国と伽耶連合の戦闘などによる遺民・難民が押し出され日本列島に移住してきます。

⑨結び:

●中国大陸にも台湾にも朝鮮半島にも日本列島にも二重瞼の人が存在します。
鎌倉・室町から戦国時代・江戸時代のように封建制度においては流動は少なく、一重瞼・二重瞼はそれぞれ地域の特徴であった。
明治維新によって中央集権化され、人の移動の制限がなくなり列島人がまざりあったため、現在、東京の街でも二重瞼の人をみかけるようになりました。
戦国武将や江戸時代の肖像画に二重瞼の人物像はほとんどなく明治維新の立役者の写真もほとんど一重瞼です。
西郷さんくらいではないでしょうか。大きな目の二重瞼は。

①および②において、北方から移動してきた旧石器人にアルタイ・ツングース系以外に一部にコーカサイドが混じっていたウラル、フィン・ウゴル系が移動してきた可能性もすてきれません。
つまり、日本在住ネイティブ縄文人(北海道から西日本にかけて)は一重瞼であった。
朝鮮半島人も⑦までは一重瞼であった。⑧になって九州弥生人と交雑して二重瞼が出現するようになった。ただし、朝鮮半島南部に見られる現象。
日本の一部九州の南方系縄文人のみが二重瞼であった。
沖縄や鹿児島から押し出された南方系縄文人が黒潮にのって縄文人が希薄となった北海道、東北に移住して、または在住縄文人(一重瞼)と交雑して優性遺伝の二重瞼アイヌ人が誕生した。
体格や体形や顔形などは環境や生活習慣によって変わります。
戦国時代、江戸時代、近代、現代日本人との比較をググってみてください。
戦国時代の日本人は江戸時代の日本人より背丈が高く、筋肉質で、江戸時代になってかなり背が低くな、そして明治から大正・昭和・平成と続く中で日本人の体形は大きくなり、手足も長く欧米人に近づいてきています。

【転】
と、いうことはいままで信じられてきた弥生顔・縄文顔が本当は逆だった。
というよりも、そもそも弥生顔・縄文顔というものはない。


北海道から東北・関東・近畿にかけての縄文人は「弥生顔」で島根県・山口県から九州にかけての縄文人は「縄文顔」でした。
約3万年前からの旧石器時代、列島には顔や体の系統がことなった二種類の「ホモ・サピエンス」が北と南に分かれて打製石器・狩猟採集という共通文化をもって生活を送っていた。
「ホモ・サピエンス」である旧石器時代人は、その出土する打製石器から原人である「ホモ・ハビリス」などとも共存していたとかんがえられています。。
現在、人が山と里といった棲み分けで猿と共存している状況と同じだったのではないでしょうか。
旧石器時代、それまでも近隣での交易はあったと想定されますが移動生活を伴う狩猟採集社会であった事を考えると交易場所のみが定位置に存在し遺跡となり、居住地遺跡(主に洞窟など)は移動生活のためいろいろな地域に散在していたと考えられます。
その後、約15000年前頃から簡単な農耕とともに竪穴式住居など各地域で旧石器時代人が定住をはじめ近隣地域と頻繁に交易をするようになっていきました。
しかし、原始社会においては「交易」という概念はなくそれぞれが一方的な「贈りもの」やその「返礼」の習俗があっただけと文化人類学では位置付けています。
また、そういった交換品は自分にとって大切なものを捧げるといった意味合いを持っています。
現代の交換アプリなどのように、必要だからとか不要だからといった考えは持ちません。

ネットでググっていた時、おもしろい風習の記事を見つけました。
近代になっても峠に置かれた道祖神などの石は、村と村との「沈黙交易」を成り立たせるためのオブジェであったという記事です。
ウィキペディアでは、「一般的には、交易をする双方が接触をせずに交互に品物を置き、双方ともに相手の品物に満足したときに取引が成立する。交易の行なわれる場は中立地点であるか、中立性を保持するために神聖な場所が選ばれる。」とあります。
鳥居龍蔵は北東アジア全般に沈黙交易が存在したと論じており(『極東民族』 文化生活研究会)、岡正雄は椀貸伝説やコロポックルの伝説、『譚海』のアイヌ、『『梁書』や『唐書』の記述にある中国の鬼市を無言交易としたとしています。
新井白石が『蝦夷志』に記録しているアイヌ同士の交易も沈黙交易とされ、道東アイヌは米、塩、酒、綿布など、千島アイヌはラッコの皮などを交換に用いた。
また、アイヌによる沈黙交易は、この他にサハリンアイヌとツングース系民族、アイヌとオホーツク人などの間にも行われている。

といったものです。
また、縄文時代中期頃から遺跡に「環状列石」(ストーンサークル)が顔をだすようになります。
考古学の学説では「祭りの場」とされています。
※実は説明のつかないもの、たとえば壊れた土偶などなんでもかんでも考古学では「祭り」「呪い」「祈り」などに利用したと説明されているようです。
この「環状列石」は居住地の中心にはなく、少し離れた場所に位置し、居住地の入り口を守るように配置されていることから「祭りの場」に意味づけられています。
しかし、そのような条件ならば先の道祖神の「沈黙交易」にあたるのではないか。つまり交換場所のオブジェではないかと。実際に、この「環状列石」は居住跡から離れた見晴らしのよい台地で多く発掘されています。

つまり、旧石器時代人はあまり接触をしなかったのではないかと。
そういったわけで、一重瞼の旧石器人と二重瞼の旧石器人と交わることはまずなかった。
縄文時代に入り、日本各地でよく似た石器や土器や土偶が出土してきます。
石器や土器や土偶は生活雑貨ですので、機能だけでいろいろと判断するのは間違いでしょう。
現代でも生活雑貨は機能はもとよりよりデザインなどファッション性もかなり重視されます。
ファッション(流行)というものが文化を牽引していくなかで土器を生み出した旧石器人が列島および海で隔たったシベリアや朝鮮半島とも交易(交流)という活動を通して縄文人(新石器人)へと生活変化ていった姿が想定されます。
それは、各地で出土する黒曜石やヒスイ・サヌカイトといった産地が特定できる生活雑貨で確認することができ、北海道白滝遺跡の黒曜石が樺太のソコル遺跡などから出土したり、伊豆半島沖の神津島産の黒曜石が青森や新潟、遠くはシベリア(ウラジオストック近辺)の縄文遺跡・新石器時代遺跡から出土しています。
また、島根県沖の隠岐ノ島の黒曜石が日本海沿岸はもとより朝鮮半島南部でも出土しています。(東三洞貝塚 約6500年前 注:縄文土器やヒスイも出土)し、九州の腰岳や姫島の黒曜石が九州はもとより朝鮮半島南東部にも運ばれています。(遺跡出土から)
ヒスイに関しても列島のみならずシベリア沿海州・朝鮮半島からも出土しています。
特にヒスイはアジアの中でも日本の糸魚川とビルマでしか産出されない特別な鉱石です。
旧石器人は食料を求めて移動したが縄文人(新石器人)は黒曜石を求めて移動または交流をしたかのようにも見えます。
ひょうっとすると黒曜石は縄文時代のある種「貨幣」的な意味合いをもっていたのかもしれません。
列島におけるこの縄文人の移動によって、一重瞼と二重瞼の二重構造が地域的に風俗として定着したのではないかと考えられます。
北から南下した一重瞼の縄文人が南から北上した二重瞼の縄文人がどこかで出会ったはずです。
陸地を行くなら、地図から想定すると関西あたりでしょうか?
始めて出会った違った種族の縄文人はお互いを見てどう思ったでしょう?
たぶん男どうしが出会ったと思います。
同じ人間と認識したのでしょうか?それとも言い伝えにある原人と思ったのでしょうか?いやいや、すでに違う人種が住んでいるとの知識をもっていて挨拶したのでしょうか?また、会話はできたのでしょうか?想像はどんどん膨らみます。が、そういった想定を記述した丁寧な本や学説には残念ながらまだ出会っていません。
ですので、自分自身の脳の思考で解決するしかないのかもしれません。(実は、そこが問題なんです。なかなかまとまりません。)
このような人類の移動に関しては考古学のみでは説明できないところでしょう。文化人類学や動物学・植物学・地理学・建築学・医学などによるところが必要となってきます。
文化人類学の本を紐解けば、現在でもアマゾンの奥地などで半原始的な生活する人々からもこのような移動の仕方がみて取れる行為であると報告されてます。
その移動のしかたも冒険的なものではなく、ある一定の範囲の中で拠点を移動していくというもので文化人類学では北米インデアンや南阿アフリカのサン族などの研究結果から、「バンド」「ホルド」と呼ばれいます。
人間も動物と考えるならば、古代人も現代人もある程度本能に基づいた同じような行動をしていたはずです。
その行動の範囲や方法や制限が古代人と現代人では違うというだけです。
現在では、狩猟採集から原始農耕が始まりだしたのが、縄文時代(新石器時代)と区分されていて、原始農耕時代の主な作物は大豆などの豆類であったり、イモなどの根菜類があげられています。
牧畜はアジアでは認められず、ヨーロッパや中東で発展してきたものと唱えられています。
最初に家畜されたのは犬でその後食用の豚やヤギ・ヒツジなどが家畜化されていきます。
8000年前頃のイラン高原ジャヤルモ遺跡からその痕跡がうかがえます。
日本列島では原始農耕を始めた北方系一重瞼縄文人が集落を拡大していって勢力を強めていき、南方系二重瞼縄文人は、列島北方面に勢力を伸ばせず九州を起点に南方(沖縄方面)、および朝鮮半島においやられていきます。
その理由は九州北部と西南部に一重瞼の縄文人がすでに到達していてあとから二重瞼の縄文人が9000~7000年ころに初めて中国大陸から海を越えてやってきたと考えれるからです。(中国南部では10000年以上前の旧石器時代遺跡が発掘されていない)
九州西部の佐賀の海岸沿いの弥生遺跡から出土する人骨は背が低く、体形ががっしりとした縄文系の人骨であり、九州北部(福岡)の海岸沿いの弥生遺跡から出土する人骨は背が多く、体形がなよっとした弥生系の人骨と言われています。
また、東北地方(青森)では三内丸山遺跡が終焉する縄文時代後期、人口が激減していったとされ、その後弥生時代前期から中期あたりの時代から北海道や東北地方ではヤクート系のニヴフでもアリュ-シャンオフォーツク人でもアルタイ・ツングース人でもないアイヌ人が表れ縄文文化を継承しその後、続縄文時代を形成していきます。
アイヌ人は樺太のニヴフとは言語も違い、DNAもあま似通っていないとされています。
沖縄とアイヌのDNAに共通項が多く現在の日本人とは少し離れているということです。
九州から南下した南方系二重瞼の縄文人が黒潮にのって、縄文文化の衰退した北海道、東北にたどり着いた。
九州もしくは、朝鮮半島に渡った南方系二重瞼の縄文人が対馬海流にのって、縄文文化の衰退した北海道、東北にたどり着いた。
朝鮮半島中部、北部では一重瞼の北方系旧石器人がすでにシベリア南部から南下して定住していたと思われます。
やがて、中国北東部の遼河文化を築いた一重瞼のアルタイ・ツングースク系新石器人がおしよせ、朝鮮半島南部に押しだされます。
ちなみに時代を下がって韓伝によると、原三国時代、弁韓辰韓は風俗が同じで馬韓は風俗も言語も違うと記述されていますので、一重瞼中国東北部系の新石器人と二重瞼の縄文人が朝鮮半島南部で交雑したとの考えは納得できます。

【結】
いかがでしょうか。
一重瞼と二重瞼の比率から日本人はどこから来たのかを論証してみました。
日本人の二重瞼率は30%程度、韓国人の生まれつきの二重瞼率は10%もないと言われています、中国人の二重瞼率は25%くらいですが地域差があるようです。
その理由をあれこれ考えるとかなり信ぴょう性のある日本列島人ルーツ説になります。
そして、今まで定説とされてきたいろいろな諸説の矛盾にも気づくことになります。
一番の矛盾は新石器時代、最終氷河期によって海面がさがり樺太と北海道は歩いて渡れた状況で、北方系新石器時代がシベリア・樺太を経て北海道にたどり着いき縄文人となり、彼らはアイヌ人の祖先である。
北方新石器人はウラルアルタイ系で一重瞼ホリの浅い樺太のニヴフとおなじです。エスキモーも一重瞼です。アイヌ人は二重瞼です。
ところで、北米インデアンは二重瞼です。
アイヌ人と北米インデアンの習俗は大変よく似ています。
コロンビア川の河畔で約9000年前の先史時代の「ケネウィック人」と命名された人骨が発見されました。
ほぼ全身の骨が回収され身長はおよそ175cmで体重74キロという筋肉質な身体を持ち、頭蓋骨は長く薄い形をしており、この特徴は環太平洋の古代人類(日本のアイヌ人やポリネシア人)と酷似して、DNAも北米先住民北に近似したDNAを持っているとされています。
北米インデアンはベーリング海峡を歩いてわっったのではなく船か筏で太平洋北部を横断しのです。
※2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震において、サッカーボールが1週間後カリフォルニアに漂着したニュースが報じられました。

最近の学説では、「ホモ・サピエンス」が東アフリカに現れたのは今から約20万年前でアフリカ大陸からの大規模な移動が始まったのは5万~6万年前だが、小規模な移動は12万年前から始まっていたとされています。
ネアンデルタール人のDNAがアフリカ以外の人類に含まれているため、先に移動していたネアンデルタール人とどこかで交雑したと考えられています。
「ホモ・サピエンス」の移動は中東で北(ヨーロッパ方面)東(東アジア方面)南(インド方面)に分かれたと考えられていますので中東あたりでネンデルタール人と交雑したと考えるのが妥当でしょう。

その後、2~3万年かけて日本列島に到達しています。

日本における旧石器時代は、遺跡から出土する石器から「ホモ・エレクトロス」や「ホモ・ハイデルベルク」など「ハンドアックス」(握り斧)などによって大型獣(ナウマンゾウやマンモスなど)を狩っていたアシュール文化を引き継いだ原人・旧人の社会であったと示唆されています。
特に旧人である「ホモ・ハイデルベルク」は日本において2万年前頃まで「ホモ・サピエンス」と平行して生き延びたとされています。
これらの遺跡は国府系文化と呼ばれています。
そして、3万年前頃からの新石刃技法をもつ石器文化を持つ「ホモ・サピエンス」の文化を茂呂系文化としています。
群馬県みどり市の岩宿遺跡は3万5千年前頃の「ホモ・サピエンス」の遺跡(旧石器時代)とされていますので我々現代人の直接の祖先です。

日本人のルーツは、もちろんこの中東で東と南に分かれて移動した「ホモ・サピエンス」であると言えるでしょう。
東へ向かう中で、ユーラシア大陸のど真ん中(当時もたぶん砂漠と険しい天山山脈)を避けて北側と南側とに数万年間に環境適応をしながら移動していったことと想定できます。
北方ルートの北方系「ホモ・サピエンス」は寒冷適応のため、一重瞼になり、ホリの浅い顔、手足の短い体形に変化しましたが、それは劣性遺伝として受け継がれてきたのでしょう。
南方ルートの南方系「ホモ・サピエンス」はあまり環境変化の適応が必要もなく二重瞼、ホリの深い顔、長い手足の体形を優性遺伝として受け継いでいったと考えられます。
その両者が日本列島の北と南に到着して、気候変動や地殻変動を通し、北から南または南から北へと移動定住(原始農耕による)を始めたのが縄文時代(新石器時代)16000年前頃です。
北方系縄文人は北方系「ホモ・サピエンス」のDNAを受け継ぎ、モンゴルや中国北東部やシベリア、樺太を経由して北海道にたどり着いた森の民でした。
一重瞼、ホリの浅い顔、手足の短い体形の日本人の祖先です。
南方系縄文人は南方系「ホモ・サピエンス」のDNAを受け継ぎ、インド、東南アジア、中国南部沿岸、長江河口(現差上海)を経由して黄海を渡り九州にたどり着いた海の民でした。
二重瞼、ホリの深い顔、長い手足の体形の日本人の祖先です。
朝鮮半島には4~3万年前の全谷里遺跡(半島38度線中央あたり)がありますが、従来唱えられている「朝鮮半島から稲作が伝わった。」とされるルートである長江河口から山東半島、遼東半島ルート上において中国大陸にも朝鮮半島(ピョンヤン以南)にも3~2万年前の遺跡が発掘されていませんので、全谷里遺跡は北方系の「ホモ・サピエンス」がモンゴルからシベリアに移動する途中、満州あたりで分派して南下した。または、シベリアの最南端のウラジオストックや北海道北端・樺太南端・アムール河河口あたりから日本海の西側や沿海州に沿って南下した。と考えるのが妥当であろうと思います。
数万年の移動生活ですのでところどころ洞窟などにその足跡が少し見て取れる程度の情報でかしか判断できませんので、推測の域をででませんが、できるだけ当時の人はどうだったかと矛盾しないように考えています。
また、残念ながら岩宿遺跡からは人骨が出土していませんので、岩宿遺跡の旧石器時代人の姿も想像できません。
岩宿遺跡の旧石器人が二重瞼であったら、北方系「ホモ・サピエンス」ではなく南方系「ホモ・サピエンス」となります。
その際考えられる移動ルートは九州から対馬海峡に乗り一気に青森まで到達し、津軽海峡に合流して太平洋に出親潮を並走して南下すれば房総半島あたりに到達します。
もう一つは九州南部から黒潮にのり一気に北上して、東京湾沖から列島に向かって進むというルートが考えられます。
岩宿遺跡の旧石器人が二重瞼であったら、太平洋岸の縄文人は南方系縄文人であったということになり、北方系縄文人が九州の南方系縄文人えおぶつかる前に関東系・東海系南方縄文人を遭遇したと考える必要が生じてきます。
ひょっとするとこの南方系縄文人が北海道や東北を占拠したとも考えられます。が、北海道や東北の旧石器・縄文遺跡の場所が海岸ではなく内陸地域と考えるとやはり北海道や東北の旧石器人や縄文人は森の民で一重瞼の北方系「ホモ・サピエンス」ではなかったと考えます。
※余談ですが、暖房もクーラーもなく、粗末な縦穴式住居。フリースやダウン製の防寒着もありません。ある穏やかな秋の日(10~11月頃)食料をたっぷり筏の船に詰め、麻で作られた長袖の服を一枚羽織り、九州から対馬海流に乗って北上した南方系縄文人はやがて能登半島付近に到達「さぶい。」新潟沖「さぶい。さぶい。」津軽海峡「死ぬ。陸なんか無視。進め。進め。」太平洋に出て、南下して仙台沖「やや、少し温かい。」房総半島沖「気持ちいいな~。」

とにかく、今まで言われていた古代(旧石器時や縄文時代、弥生時代の通説がまったくでたらめであったと提起します。
弥生系も縄文系も縄文人で渡来弥生人などというものは存在せず、朝鮮半島南部は南方系縄文人の生活地域でそのまま無文土器時代に移った事。
アイヌのDNAに関する謎もこの説でうまく説明できました。
アイヌと北米インデアンは共通項が多いが、シベリヤニヴフ族やエスキモーやアリュシャン・オホーツク人とは離れている事。
アイヌのルーツは北方系縄文人ではなく南方系縄文人であるがゆえに二重瞼でホリが深く毛深く手足が長い事。
一重瞼の北方系縄文人が北から南へ向かって日本列島を移動定住していったであろう事。
二重瞼の南方系縄文人は、かなり遅れてから中国大陸の長江あたりから九州西北部へ東シナ海を海流に乗って日本や朝鮮半島南部に渡り移動定住してたであろう事。
日本人の二重瞼率が30%程度占めるのは北方縄文人と南方縄文人が共存していたからという事。
韓国人の二重瞼率が10%以下程度存在するのは南方系縄文人が朝鮮半島南部の狭い地域で定住していたからという事。
中国人の二重瞼率が25%であるのは長江あたりで陸路北上と海路東進に分かれたことにより北方モンゴロイドの南下勢力が拡大していったという事。
日本語と朝鮮語にあまり共通性がない事。
日本語は南方系「ホモ・サピエンス」と北方系「ホモ・サピエンス」の言語が混じり合った言語であるという事。
長江、山東半島、遼東半島、朝鮮半島の伝搬ルートはかなりかなり時代が下がってから活発していったであろう事。

残された問題・謎は南方系「ホモ・サピエンス」が北海道や東北に移動したとして、どうやって生きてきたのかという事。
数万年では環境適応が体に表れるが数千年では表れないという検証。
アイヌ人と沖縄人のDNAは近似しているのに対して、沖縄語は日本語の方言だが、アイヌ語は別言語とされている事。




■資料------------------------------------
ニヴフ語
ニヴフ語は少し昔までギリヤーク語と言われた。
こう言うと聞いたことがあると思う人もいるだろう。
サハリンが樺太といわれた時も、その遙か昔からニヴフ語はアイヌ語の隣にあった。
つまり日本語の向こう隣にあった。
奈良・平安時代にオホーツク海沿岸にオホーツク文化という古代文明があった頃、ニヴフの人たちは網走や稚内とか西は江差の方まで活動していたという見方もある。
いまでこそニヴフの人たちが主に住んでいるところはサハリンの中部以北とアムール川の下流だけになってしまったが、ニヴフ語は日本地域の諸言語の中の一つであることになる。
アイヌの人たちニヴフ人とのつき合いはもちろん古い。
しかし日本人との触れあいも稀ではない。
例えば間宮林蔵がアムール川を遡って清朝の出先交易所デレンへ行ったとき、同行して案内してくれたのはニヴフの人たちであった。

ニヴフの人たちがどこから来たかを問うのは愚問かも知れない。
縄文以来その辺りに住んでいたと考えるほかはないからである。
だから当然ニヴフ語も昔からそこにあって、アイヌ語と隣り合っていたに違いない。
ところがこの両言語を比べて似ているところはない。
おそらく親類ではない。
それどころかニヴフ語はアイヌ語よりもむしろ日本語の方に似ている。といっても共通な語彙があるわけではない。
ただ文法に構造に比較的共通な面が見られるというに過ぎない。

それに何と言っても人のすがた形がわれわれにそっくりなのには驚く。
日本のスーパーマーケットではニヴフ人がレジで叱られる。
「日本人のくせに日本語の計算できないの」というわけである。
一方、アムールの店では日本人をニヴフ人と区別する目安ははいているジーンズの出来くらいのものである。

アムールの下流には2000人ほどのニヴフ人がネギダール人などと一緒に住んでいる。
殆どニヴフだけの村もまだ2,3箇所は残っている。しかし家でも道路でも店でもニヴフ語は聞かれない。
名の知れたおばあさんのところへ行って頼んで話していただけれるのがやっとである。
一方サハリン全体でもやはり2000人を少し越える位のニヴフ人が住んでいる。
だがこちらでは州議会にニヴフの代表を送ったり、著名な作家が活動していたり、あちこちの博物館に学芸員をやっていたり、ニヴフは大活躍である。『ニヴフ語』という新聞(月刊)も出している。
だがそれでもニヴフ語が家庭語になっている家は一・二軒か、それもあのおばぁちゃんとあの娘との会話だけかなと言えるくらいである。

公教育でニヴフ語を正課にしているところはアムールとサハリン合わせて二校である。
もっとも随意科目としてニヴフ語教室をおくところがほかにいくつかある。
それにしては立派な教科書が1970年代から作られ、学習用の辞書も読本もある。
しかも北西方言(アムール下流と北西サハリン)と南東方言(サハリンのトゥミ川流域以南)に分かれて、結構使われている。
それでもニヴフ語はすでに生活語として使われてはいない。
全員がロシア語の母語話者になってしまっている。
昔話を語るひとも数えるほどしかいない。
この言語の先行きは見えない。いまのところ完全に先細りである。
あのお婆さんが亡くなったらどうするんだと思うばかりである。そして事実、一昨年はあの方が、去年はあの人が、という有様である。

しかし『ニヴフ語』の編集と配布に精を出している姿を見て、たとえ余所者であっても、何か手伝いたいと思う。
本やビデオ番組を作る手助けでもできればと願う。
「危機言語」だなどとよそよそしいことを言わないでほしい!
このほれぼれするほどに立派な言語を必死にに守ろうとするひとたちがそこに生きているのだから。

《金子亨:言語学(2006年掲載)