アバウト
日本の古代史に興味を持ち始めたのはここ2014年頃になります。
寝屋川市埋蔵文化財資料館に行ったことがきっかけです。
大阪府寝屋川市打上宮前町3番1号寝屋川東ファミリータウン中1番館1階
寝屋川市埋蔵文化財資料館
そこで初めて、縄文土器と弥生土器を触りました。
(土器がさわれる数少ない資料館です。他に知っている限りでは、東大阪市埋蔵文化財センターがあります)
私の住む街『寝屋川市・その周辺』は忘れ去られた古代歴史の宝庫のような気がします。
奈良や河内といった遺跡の有名な地域と近い地域ですが、本などにその地名が載ることはほとんどないようです。
※聖徳太子・秦河勝の章で時々目にするくらいです。
しかし、調べていくと(そう専門的でなく興味本位でも)石器時代から縄文・弥生・古墳そして奈良時代への遺跡、遺物が連続的に出てきていることに遭遇します。
さらに、寝屋川、四条畷には縄文時代の遺跡、遺物が出土しますが、5kmほど離れた交野では縄文の遺跡はでない。その代り、交野では弥生-古墳時代の鉄の甲冑や剣が出ますが寝屋川では出土していないという事です。また、交野には岩舟神社もあり、日本書記の天孫族が降り立った地であるという伝説もあります。この地域を治めていたのが物部氏でその下部に秦氏が活動していた。などという話も学術員さんと当たりまえのように「でも、なぜ秦河勝の墓が寝屋川にあるんでしょう?交野ではなく。」「なぜでしょう?」といった感じお話ができます。
また、縄文海進の関係で、寝屋川市や四条畷市の外環状線(170号線)の大阪市方面は河内湖で縄文時代の遺跡は出土していないこともわかります。
神社も八坂神社、八幡神社、春日神社、高良神社など出雲系・渡来系といわれる神社が散見されます。
しかし、歴史の本などにはほとんど『寝屋川』という地名がでてきません。
そんなこんなで、古代の歴史に興味を持つようになりました。
その後、いろいろと本を読んだり、インターネットで検索したり、大阪府立歴史博物館や近隣の歴史博物館・遺跡などへ足をはこんだりして自分なりの日本古代史を探っている最中です。
この地域では物部氏-秦氏という支配構図が見てとれます。
秦氏は織物技術をもたらした渡来系といわれていますが、寝屋川市ではあまり織物が盛んではありません。
歴史家と言われる学者や研究者や作家の方々の書籍などを読むと、結構著者のおかれている「環境と思想」というものが解説等に影響しているものだなと感じます。
そういったものを取りのぞいた真実を考察していきたと考えます。
「環境と思想」の一例をあげると最近読んだ「渡来の古代史」上田正昭(京都大学根伊代教授・世界人権問題研究センター理事長・各博物館理事長)の中で、気になる点がありました。
秦氏に関する章で大阪府寝屋川市にも秦氏の勢力があtって、秦・太秦という地名があり、5世紀後半から6世紀はじめにかけての太秦古墳群にのそのありようが反映されている。
そのありようというのは、前文から
1)朝鮮半島の新羅を祖とする人々が弥生中期より深草の地域で農業を営んでいた。
2)韓式土器を残した渡来の人々が宇治から深草へと勢力を伸張させた。
3)馬による交易の文化があぅた。
4)古墳時代中期、馬などを使った耕作による農業技術が渡来した秦氏によてもたらされた。
5)彼らは「渡来」であって「帰化」ではない。
と推測されます。
北河内には馬の牧があって実際に数多くの馬の埋葬例が検出されている。
というくだりがありますが、まず、太秦古墳群とは何をさすのでしょうか?全長39メートル、円丘部の直径37メートル、高さ7メートルの太秦高塚古墳があるくらいです。※丘の上で遊びに行くときの通り道(抜け道)として横を通ります。
太秦熱田神社の裏山から牡鹿の頭部と考えられる埴輪が出土したくらいであとは「塚と」か「山」「谷」などの地名が多いことから古墳群といわれているようですが、はっきり言って住宅地で古墳群を思わせるような場所はありませんし、その名前の由来がなんであるかもわかりません。ぽつーんぽつーんと数キロ離れたところに打ち上古墳や岩の宝殿などがある程度です。
あと、鹿の埴輪はでてきてますが馬の埴輪はでてきてるんでしょうか?
蔀屋北遺跡(大阪府四条畷市)から、馬一頭を埋納した土坑が発掘されています。日本書紀にも「河内馬飼」と表記されているそうですが、それだけです。
寝屋川の歴史(閲覧のみ)という本が図書館にあり、それを読むと昔から寝屋川の山のほうは牧場であったという話が載っています。生駒山麓の牧場で馬や牛を放牧させた馬飼い達が寝るために戻ったのが由来で「寝屋」そして寝屋川というようになったそうです。明治・大正ころまで、寝屋川の百姓や地主や村から馬や牛を預かって育て、田植えの時期に田を耕すために戻しそれが済むとまた預かって育てていた。という歴史が載っています。
いつからそういった分業が始まったのかはわかりません。
はたして、4世紀、5世紀にそのような分業があったのかどうか確証も提示せず、韓式土器を作った渡来人が移り住み古墳群をきずきあげたというのは乱暴ではないでしょうか。
まるで渡来人が寝屋川を支配・統治し、その子孫が秦氏で秦氏はさらに宇治、深草にも勢力を伸ばし、主要交通を配下に収めていた。とさえ言わんばかりの説となっています。
「帰化」ではなく「渡来」といいうことはそういうことでしょう。
いつから、寝屋川市民は日本人になったのでしょうか?まだ、なってないのでしょうか?現代における国民と人権を古代史にあてはめようとする無理が露呈しているようにさえ感じられます。
本当に「寝屋川」を検証したのかどうか疑問です。
そういったことも踏まえて考えると
秦氏が渡来系の技術集団とした場合、物部氏はどうやって秦氏を支配下においたのでしょうか。
秦氏はなぜ物部氏に従ったのでしょうか。
「弥生時代、半島や大陸よりの技術をもった渡来人がやってきて弥生人となり縄文人と交わった。」と言われています。
その時の支配体制はどうだったのかな。などと思いをはせています。
渡来人の下に縄文人が従った場合、物部氏が渡来人で秦氏が縄文人。
しかし、秦氏は渡来系といわれています。
ということは、先にやってきた物部氏(渡来系)に後からやってきた秦氏が従い、下部に縄文人がいた。となるのでしょうか。
では物部氏と縄文人の関係は?
つまり、物部氏が縄文人を支配していたところへ後から秦氏がやってきて、無理やり物部氏と縄文人の間に割って入った。ということになるのでしょうか。
縄文人に許可を得て渡来系がその地で生活をしたと考えると、物部氏は縄文人、秦氏は渡来人で支配関係がわかりやすくなります。
不思議なのは秦という地名も太秦という地名も寝屋川市にあることです。京都と同じです。
京都の太秦は有名(太秦映画村)ですが、寝屋川の太秦はほとんど無名です。
寝屋川の秦・太秦は最近では住宅街になってきていますが、ちょっと昔までは開発の遅れた地域でした。
寝屋川市の開発が進み、いろいろな遺跡や遺物が出土するようになってきています。
最近も 四条畷市との境の讃良(ささら)川あたりでいろいろと出ているみたいです。
この讃良は持統天皇の諱、鸕野讚良(うののさらら)のささらと同じとも言われて興味深く感じています。