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考察

おかしいなの一例(曽畑式土器時代と櫛目文土器時代)

日本古代史に関して、いろいろな書籍やWEBページを読んでいて思う事。
「同じような遺物が朝鮮半島でも出土しているので、渡来人によってもたらせたといえる。」
と、いう文言が書かれている場合のほとんどで5W2Hが抜け落ちているようです。
私は、物事を説明するときは5W2Hが必要であるというごく普通の日本社会で生活しています。
「いつ・どこで・だれが・なにを・どうする・なぜ・どのように」


■ウィキペディアからの例:
「櫛目文土器時代 草創期は紀元前8000年から6000年頃と言われている。
前期は紀元前6000年から3500年頃
また紀元前4000年頃に各地で櫛目文土器が出現する。
櫛目文土器はウラル系民族、とりわけフィン・ウゴル系民族と関連しており、最古のものが遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されている。
縄文時代前期に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑式土器も、朝鮮の櫛目文土器の影響を強く受けたと考えられている。
朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている。」

書籍においてもたぶん同じような記述が多いようです。それらを5W2Hで整理してみました。
「いつ・どこで・だれが・なにを・どうする・なぜ・どのように」


■いつ:
曽畑式土器時代:紀元前5000年~紀元前3000年
櫛目文土器時代①:紀元前6200年-紀元前5400年
櫛目文土器時代②:紀元前4200年以降
櫛目文土器時代③:紀元前4000年以降
■どこで:
曽畑式土器時代:熊本~沖縄・釜山市にある東三洞(とうさんどう)貝塚(朝鮮半島南部)
櫛目文土器時代①:遼河地域(モンゴル自治区)の興隆窪文化 紀元前6200年
櫛目文土器時代②:フィンランド 紀元前4200年以降
櫛目文土器時代③:朝鮮半島 紀元前4000年以降
■だれが:
曽畑式土器時代:日本縄文人(九州)・朝鮮半島新石器人(朝鮮半島南部)
櫛目文土器時代①②:ウラル語族(ヨーロッパ・シベリアから北東アジアの新石器人)
櫛目文土器時代③:朝鮮半島新石器人
■なにを:
曽畑式土器:櫛目(くしめ)の文様を持つ土器
櫛目文土器:櫛目(くしめ)の文様を持つ土器
■どうした:
曽畑式土器時代:朝鮮半島から来た渡来人が櫛目文土器をもとに教えて作った。
櫛目文土器時代①:ウラル語族が作った。
櫛目文土器時代②:ウラル語族がフィンランド・ヨーロッパに櫛目文土器を教えて作った。
櫛目文土器時代③:ウラル語族が朝鮮半島石器人に櫛目文土器を教えて作った。

■なぜ:?(説明がありません)
■どのように:?(説明がありません)


一般的な説としては
縄文時代の前期に朝鮮半島の櫛目(くしめ)の文様を持つ土器を使用する人々が海を渡り西北九州に上陸。
当時同地で使用されていた土器に影響を与え、その結果曽畑式土器が成立したとされています。
朝鮮半島と西北九州縄文人との活発な交流関係を想定し、
【朝鮮半島南部→西北九州→中九州→南九州→沖縄】
へ伝播したと考えられています。

ところが、これらの土器が使用されていた時間差を発見された状況から検討してみると、島外産と地元産が入れ替わるサイクルが以外に早いようで、従来の伝播(南下)説だけでは説明しがたい状況が見えてきます。

■なんど読んでもわかりにくい文章(なにか意図があるのでは?)
近年、金峰町阿多貝塚,大口市日勝山遺跡,横川町星塚遺跡,頴娃町折尾遺跡か、古い時期の曽畑式土器が発見されたことは重要な意味をもちます。
それは西北九州から南下した曽畑式土器とその文化が、中心的な拠点を九州の東シナ海沿岸に拡散し、西南九州が大きなまとまりとして曽畑式土器文化圏を形成していき、その中で一湊松山遺跡に生活していた人々が九州本土と南西諸島を結ぶセンター的役割を担っていたとも考えられるからです。
<鹿児島県上野原縄文の森ホームページより抜粋>


一般的な説としては…………が 「論理破綻」 してしまっていますよ。

まず、なぜ朝鮮半島から九州へ海を渡ったのでしょう。
どうやって朝鮮半島から九州へ渡ったのでしょう。
釜山市にある東三洞(とうさんどう)貝塚は、東三洞貝塚展示館によると約7500年前と言われています。紀元前5500年位になるのでしょうか。(7500年前-西暦2017年=5483年 ※単位を合わしました)
九州地域の縄文人との交流があったことを示す縄文土器と黒曜石石器が展示されています。(紀元前5500年位~だと整合性があります。)
興隆窪文化から櫛目文土器が伝播するまえに縄文土器が朝鮮半島南部に伝播していたという事ですね。
興隆窪文化から櫛目文土器が伝播すのが紀元前4000年位からといわれています。
紀元前5500年位の東三洞(とうさんどう)貝塚には櫛目文土器はなく、曽畑式土器は有った。ということになります。
紀元前4000年位の東三洞(とうさんどう)貝塚には櫛目文土器は有り、曽畑式土器も有った。ということになります。
貝塚は今は埋め戻されています。
海をどうやって渡ったのか。
飛鳳里貝塚の1号舟は新石器時代の早期前半(約7500年前・紀元前5500年頃)のもので、縄文時代の丸木舟より早い時代のものと言われています。
※飛鳳里貝塚(全羅南道 宝城郡--半島南東部の海岸 済州島の対面あたり)。
※釜山東三洞貝と同年代です。距離にして、朝鮮南部海岸を西に約150Km。
千葉県市川市の貝塚を主体とする「雷下遺跡」で、日本国内最古となる約7500年前(紀元前5500年)の丸木舟が出土しました。
約7500年前(紀元前5500年)は日本では縄文前期に位置づけれています。
※韓国の「聨合ニュース」では日本最古の「丸木舟の櫂」石川県七尾市の三引遺跡(貝塚)出土(6000年前)を比較対象として紹介しています。
※参考に、大平山元I遺跡の世界最古の縄文土器は16,500年前のものです。(縄文草創期にあたります 紀元前14500年位)
となると、曽畑式土器(九州)のほうが朝鮮半島(釜山東三洞貝塚)から出土した櫛目文土器より古い。
【朝鮮半島南部→西北九州→中九州】
 は間違いで 
【西北九州→中九州→朝鮮半島南部】
 が正しいとなるのでは。
西九州から一派は南下し、一派は北上した。と考えられる。が、釜山と熊本の間の福岡地域からは出土していない。
ということは、北上せず、北九州を迂回して西九州から直接有明海→東シナ海→釜山という海の道が考えられる。
西九州・中九州グループと北九州グループの間になにがあったと考えるのが妥当です。
おかしい。曽畑式土器と櫛目文土器はよく似ている。
曽畑式土器(紀元前5000年)より1000年ほど古いウラル地方の櫛目文土器(紀元前6200年)は、朝鮮半島に(紀元前4000年)以降伝播した。
考えられるのは、ウラル地方の櫛目文土器が朝鮮半島を経由せず、西九州に紀元前5000年頃直接伝播した。?そんな事あるのだろうか。
それが曽畑式土器となって釜山に伝播した。
まてよ、ならば朝鮮半島の他地域から、紀元前4000年以降伝播の櫛目文土器がなぜ出土するのか?
まてよ、ならば朝鮮半島の他地域から、紀元前4500年頃の曽畑式土器がなぜ出土しないのか?



海流と偏西風を考慮に日本への渡来、朝鮮半島への渡来の経路図を作成しました。
日本の北部九州から朝鮮半島へは、海流や偏西風に乗れば案外簡単にいけますが朝鮮半島から日本へは、海流にさからいながらとなります。
朝鮮半島南部、プサン(東莱・金海)あたりから隠岐には海流にさからわずに漂着することが簡単に行えます。
縄文の船を考えると隠岐からプサン方面に向かうのは困難です。
北部九州からは簡単にいけますが、プサンから北部九州へは朝鮮・対馬海流との闘いとなっていたでしょう。
朝鮮半島から渡来人がやってきた。先進文化を与えた。
いかにも簡単にやってきたような言葉をよく耳にしますが、櫛目文土器をやっと中国遼河地域からなんとか手に入れることのできた新石器時代の朝鮮半島人が曽畑式土器も手にしていた。という事実を考えると、やはり縄文人が半島に先進文化を伝えたのだと確信します。
※画像をクリックでもう少し見やすい画像を別ページで表示します。


一つの答えとして釜山・東三洞貝塚は西九州縄文人と同族だった。
北九州縄文人(ひょっとしたら外来種)と対立していた。
その他の朝鮮半島南部は朝鮮半島新石器人だった。

※最近、九州西部(長崎県)などの遺跡で出土した弥生人骨が縄文人的であるということが分かりました。が、北部九州の遺跡からは支石墓など外来系の墓が沢山見つかり、出土した人骨ものっぺりとした面長な弥生系人骨です。やはり、西部九州と北部九州の間にはなにか人種的な軋轢があったのではいかと考えられます。
また、北部九州以外ではのっぺりおもなが顔の弥生人は山口県の海岸線に多く、その他の地域の弥生人は縄文的な要素があるようです。
※よく縄文人と渡来系弥生人(戦争難民)が混血したという方が多いと思います。日本人の7割が一重まぶたで、モンゴロイド系なのでそのように言われると思わず納得してしまいがちですが、混血を考えた場合、この時代よりもあとの古墳時代から奈良時代にかけて混血化していったと考えるほうが妥当ではないでしょうか。百済滅亡でもかなりの難民が押し寄せたと考えられます。
もちろん、技術者だけでなく一般人や奴婢などの難民も多く来たのではないかと考えます。


■いつ:紀元前5000年~紀元前3000年
■どこで:熊本~沖縄・釜山市・東三洞
■だれが:西九州在住縄文人・釜山在住西九州同族縄文人
■なにを:櫛目(くしめ)の文様を持つ土器
■どうする:作って伝播し、交易をした。
■なぜ:同族だから
■どのように:丸木船で海を渡った。


※とりあえず5W2Hの説明が矛盾なくできるようです。
※残されたミステリーは、曽畑式土器と櫛目文土器の関係性です。なぜ似ているのか。
※その他参考
※上記の「興隆窪文化」は、ヒスイなどの玉製品の出土する文化としては中国最古のものといわれています。
※ヒスイは日本の糸魚川周辺と他アジアではミャンマー北部でしか産出されません。
※つまり、遼河地域の興隆窪文化に日本からヒスイが運ばれたという事になります。
※別に日本を賛美しているわけではありません。事実はどうなのかを知りたいだけです。
日本は遅れた地域で大陸や半島の進んだ文化を取り入れてきたという自虐的な考えにもとづく歴史史観は古代にはあてはまりません。
漢字を日本が発明したなどという「バカ」はいないでしょう。
古代史研究の場合はどうでしょう?なにがなんでも日本が遅れた地域で大陸が進んだ地域でなければいけないと考える「バカ」もいるようです。
理由はわかります。四大文明という歴史にしがみついているからです。
また、「日本人はどこからか来た人々である。」というやはり自虐的な考え方は人類誕生の30万年前までさかのぼるとそうだろうとは思いますが。
約7~10万年前の旧石器が出土していますので、日本人は日本在住の民族であるという考え方でよいのではないかと思います。


曽畑式土器時代検索 (ウィキペディア)
櫛目文土器時代検索 (ウィキペディア)



鹿児島県上野原縄文の森
鹿児島県立埋蔵文化財センター



http://www.jomon-no-mori.jp/no18.htm